機械と人間の協働
『MANGALOGUE:火の鳥』というライブパフォーマンスを観て
友人が先日、電子音楽グループ Kraftwerk のライブを見に行ったそうだ。
一方そのころ、私は東京の高輪ゲートウェイにいた。今年3月末にオープンしたばかりの複合型ミュージアム「MoN Takanawa: The Museum of Narratives」。
「MoN」の音には、“門”と“問”という二つの意味を込めました。好奇心をひらく“門”と、未来をつくる“問”に出会う場所です。
そこで開館記念特別公演として「MANGALOGUE(マンガローグ)」なるものが開催されており、それをある人が内容も詳述せずに勧めていた。それでミュージアムのことも公演のこともほとんど知らぬまま、えいやと足を運んでみたのだ。
よい体験だった。行ってよかった。
何も知らなかったので、展示みたいなものなのかなと勝手に思っていたが、そうではなくて、着席して観るライブパフォーマンスだった。
ロボットアームとカメラ、スクリーン、そして数名の人間たち。舞台装置はシンプルだ。それらとともに私たちはマンガを浴びる。映像化ともまた違う、これまで私が見たことのないかたちだ。
機械と人間がアナログに協働して、話を進めていく。現代の技術なら、もっと高度なコンピュータグラフィックスでも複雑な3D表現でも、やろうと思えばいくらでもできるのだろう。しかしその上で、マンガを表現するのにはコレだ、というやり方で、新鮮だったし、そして今回の題材とも合っているようで味わい深かった。マンガだったなぁ。
4月22日から5月16日という限られた期間だけの開催なのがもったいない。1時間の公演です。お近くにお立ち寄りの方は、機会があればぜひ。
MANGALOGUE(マンガローグ):火の鳥 特設サイト|MoN Takanawa: The Museum of Narratives
このパフォーマンスは、手塚治虫『火の鳥』の「未来編」を取り上げている。
舞台は西暦3404年。地球環境が壊滅的になり、人類は地下に都市国家に暮らし、電子頭脳(AI)が支配する世界だ。物語はそこから始まり、途方もなく壮大に広がっていく。こどもの頃に読んで、ひどく恐しく感じたのを覚えている。
AIについて聞かない日がない昨今の状況に対して示唆深いところもある。ただ私は、これはAI自体というよりも、ガバナンス、つまり「組織を健全に運営するための管理体制や統治」の話だなぁと思った。それがAIでなく人間だけだったとしても、権力の集中や、盲目的な追従による意思決定の危うさは変わらないだろう。古来から続く話題だ。
この数千年で人類の技術は大きく進歩した。しかし21世紀の現代にも、数千年前の思想は強度を持って届く。それは、人間というものが根本的に変わっていないからだろう。
しかし1400年後の未来はどうだろうか。想像するに、これからの世代は、それまでに無かった形でバイオロジカルに根底から変えられていくのではないか。そのとき人類(と呼んでいいのか分からない存在)には、これまでの哲学は通用しなくなる。例えば、欲求を完全に制御できたり、寿命の終わりが無くなれば、そこには今とは根本的に異なる価値観が生まれ、それに即したまだ見ぬ思想が求められるのは当然だろう。
ただ、そこへ辿り着く前に、文明や科学技術が衰退してしまうかもしれない。
道家思想の経典『老子』に、次のような一節がある。
天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す
「芻狗(すうく)」とは、祭礼のときだけ使われ、終われば捨てられる藁人形の犬のこと。
つまり「天地自然に仁(人間的な慈愛)はなく冷酷であり、何事も特別扱いせず、用が済めば打ち捨てる」と言っている。
そしてこう続く。
聖人は仁ならず、百姓をもって芻狗となす
理想的な存在である聖人も、支配者として人民を治めはするが、その目的を達すれば、あとは彼らを放棄し執着せず無関心でいる、ということである。
機械や火の鳥を擬人化して捉えてしまいがちだが、それらは「仁ならず」なのかなと思う。冷酷とも言えるが、それは俗人の視点に立つからだろう。
火の鳥には人間を憐れむようなところも見られる。それは必ずしも人間中心主義的な観点からだけではないようにも捉えられる。
例えば仏教の開祖ゴータマ・ブッタも、涅槃に至り「仁ならず」のはずだ。では悟ったあと、なぜそのまま何もせず死ななかったのか?この話題について、魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』という本で現代の人々にも分かりやすく丁寧に解説されており(この老子の話はそこで知った)、これがまぁとんでもなく面白いと私は思う…… それについて話し出すとまた止まらなくなってしまうので、今晩はこの辺でやめておこう。
手塚治虫が、どのような思想を抱いて『火の鳥』を描いていたのかはわからない。生命讃歌や、業の肯定もあれば、より悲観的な見方もあったのかもしれない。なにしろ活動初期の1954年から、1989年に没する直前まで取り組んだのだ。様々な想いが渦巻き、そして変化していっただろう。
『火の鳥』は過去、未来、過去、未来、と交互に「現代」に近付いて描かれるが、手塚は「自分の死亡時刻」を現代としており、「現代編」を死ぬ瞬間に1コマ程度描くと公言していたが、それは叶わなかった。
未来編は今から60年ほど前、1967-68年に発表された。それから世界は大きく変わったが、人間はあまり変わっていなさそうだ。だからこそ、この物語が響く。
今から60年後にはどのような世界が待っているだろうか。機械と人間はどのような関係を築いているだろうか。人はもっと変わっているだろうか。悶々と考える。


