「文章について」ではなく「文章」を考える
そしてこちらからサーブする
歌人の木下龍也さんによる、このフレーズが好きだ。
短歌を始めたばかりのあなたが考えるべきは「短歌」であって「短歌について」ではない
彼はこのように書いている。
ここで注意しなければならないのは、短歌を始めたばかりのあなたが考えるべきは「短歌」であって「短歌について」ではないということ。いい歌とは何か、どうすれば他者の心を打つことができるか、それらはもちろん大事なことだが、考え始めたらキリがない。短歌についてではなく、まずは短歌を考える。最初のうちはとにかく机に向かって手を動かす。何か使いたい言葉やテーマを持って短歌という入れ物に向き合うのもいいし、最悪、手ぶらでアイデアなしに向き合うのもいい。待っていればなにかしらの言葉を31音という定型が引き出してくれる。
そのシンプルでストレートな言い方が印象的で、よく覚えている。
だけど、いざ手を動かしてみると、思い通りの形にならずがっかりする。そんな不甲斐なさを抱えるのは、よくあることだろう。
だからこそ、「手」が「目」に追いつくには、量をこなすほかに道はない。この話題については以前も書いた↓。
自分の目を拠り所として、手について考えるのに逃げず、手を淡々と動かす。
しかし、「自分の目」だけに頼りつづけるのは、ただの独りよがりに終わるのではないか?多くの人へ届けたいなら、他者の視点や市場のニーズを無視するわけにはいかない(そもそも広く届けるべきか、という問いも重要だと私は思うが、ここでは一度置く)。
ビジネス戦略における「プロダクトアウト」と「マーケットイン」。
前者は「作り手」に起点を置く。「良いものを作れば売れる」。
後者は「買い手」に起点を置く。「売れるものを作る」。
どちらがいいのか?この対比について、経営学者の楠木建さんによる捉え方が好きだ。
ようするに順番の問題です。いずれにせよ、お客さまに買ってもらわなければ商売にならない。プロダクトアウトでもマーケットは大切です。テニスに例えれば、商売はプロダクトとマーケットのラリーのようなものです。ただし、サーブ権がどちらにあるのか、これが大きい。一般的な優劣の問題ではないのですが、絶対悲観主義の僕はインサイドアウトを選好します。
結果的にうまくいかなくてもイイと割り切って、まずは自分が面白いと思うものを書く。自分で面白くないものは世の中に出さない。ビジネス書の業界にはそのときどきの需要曲線みたいなものがあって、その曲線上に「こういう本作りませんか」という提案を出版社の方からしばしばいただきます。こういうオファーは基本的に受けないようにしています。僕の意思と無関係に、向こうが打ってくるサーブだからです。
楠木建『絶対悲観主義』p.77-78
何がうまくいくかわからないし、何をやってもいい。それなら、自分がまずは好きなサーブを打つ。それがいいじゃないか、と私も思う。
スタートアップ風に言うなら、要は「ファウンダー・マーケット・フィット」ではないか。
他の誰かではなく、なぜ「あなた」がこれをやるべきなのか?
この言い方だと使命のようで重く感じられるが、より素朴に捉えるならそれは、「あなたがやってて楽しいか」ということだろう。人それぞれ、信じられないほど多様な「楽しさ」がある。
フィットしているから、否応が無しに訪れる浮き沈みに溺れず、淡々と続けられる。
別に、誰かに短歌を作れと無理強いされているわけでも、Substackを書けと脅されているわけでもない(ですよね?)。選択肢がある。サーブ権がある。
有限の人生、選べる中で、「あなたが」楽しいことをやればいい。それが結果的には社会全体の益にもつながると私は思う。
そうして、楽しんでやっているからこそ、カルチャーは醸されていくのだろう。
花束を抱えて乗ってきた人のためにみんなでつくる空間
木下龍也 第一歌集『つむじ風、ここにあります』より

