楽しく書く
長年の友人が、最近 Substack を始めた。
突如始めて、それから毎日毎日書いている。この前ばったり会ったとき「いったいどうしたんですか?」と聞いてしまったほどだ。
「面白いよ」と誘われた。せっかくの機会なので、私もやってみよう。
自然言語処理の発展と、文章の価値
生成AIが花開く2026年春に、自分で文章を書く必要はあるのだろうか。メールなどちょっとしたビジネス文書なら、AIが、全く手直しの必要がないテキストを瞬時に提示してくれる。下手に人間が手を入れるよりも、そのまま出したほうがよっぽど間違いがない。かなり複雑なものでも相当上手く扱えるだろう。
昨今取り沙汰されるAI、いわゆる大規模言語モデルは、「自然言語処理」という分野から生まれたものだ。私は2012年に大学院で研究を始め、それからアカデミアと産業界を行ったり来たりしつつ界隈に少しばかりは関わってきた。技術の発展としては2010年代後半からが現代につながる流れだと思うが、特に2022年からの数年での社会需要の爆発には目を見張るばかりである。
学会誌『自然言語処理』の最新号(2026年33巻1号)では、当分野の研究者である鶴岡慶雅先生が巻頭言で『文章の価値』と題して次のように述べている。
近い将来,文章執筆における人間の役割は,書きたいことを箇条書きでプロンプトに入力することであり,その先の文章化は AI がするもの,となったとして,それによって最終的にできあがる文章の質が良くなるのであればそれはそれで良いという考え方もある.文章の執筆にかかる時間も圧倒的に短くなるのだから,タイパ全盛の世の中では,それで良いのかもしれない.
鶴岡先生がその前段で述べているように、AIコーディングツールはすでにソフトウェアエンジニアにとって欠かせないインフラであり、私自身、自らぽちぽちとコードを書くことは全くといっていいほど無くなった。この1年間での変化である。
ここまでの文章は、一応、人間が書いている。そうやって明示しなければならないくらい、AIで書かせることがデフォルトになっていくだろう。「固定電話」「マニュアル車」「回らない寿司」みたいな話である。
そんな中で、あえて自ら文章を書く意義は、単なる懐古趣味以外にあるのだろうか?
書ける人と書けない人
スタートアップ・アクセラレーター「Y Combinator」は、AirbnbやDropbox、Stripeといった数々のインパクトある企業を輩出してきた。二代目の代表として2019年まで務めたのは、現 OpenAI CEO の Sam Altman だ。
Altmanの前、YC 設立者の Paul Graham は、『ハッカーと画家』をはじめとする数々の魅力的なエッセイで知られる。その彼は “Writes and Write-Nots” という2024年11月のエッセイで、次のように述べる。
普段、テクノロジーに関する予測を口にするのは気が進まないが、これについてはかなり自信がある。あと数十年もすれば、文章を書ける人はほとんどいなくなるだろう。
I'm usually reluctant to make predictions about technology, but I feel fairly confident about this one: in a couple decades there won't be many people who can write.
書くことは、根本的に難しい。そしてこれまでは、それを代替する手段が(代筆や盗用以外に)なかった。しかし今や、AIがそれを肩代わりできるようになった。であれば、自らその難しいことをする必要はなくなる。
それの何がいけないのだろうか?例えば、AIが議事録を完璧にまとめてくれるのに、若手メンバーにそれをやらせる必要はあるのだろうか。自分で書けというのは、「俺たちの若い時代はもっと苦労したんだぞ」「兎跳びしろ、水飲むのも禁止な」というような、老害的精神論に過ぎないのではないか。これまでも技術は様々な仕事やスキルを代替してきた。それでいいではないか。
いや、それは問題だ。なぜなら、「書くことは考えること」だからだ、と Graham は主張する。ゆえに、これからの時代に「書ける人」と「書けない人」の分断が生じていくのは、思っている以上に危険なことだ。それはそのまま「考えられる人」と「考えられない人」の違いになるからだ。
産業革命以前の時代、ほとんどの人は日々の仕事を通じて、自然と体が鍛えられた。しかし現代では、強靭な肉体を手に入れるには、自らトレーニングを行う必要がある。今でも身体能力が高い人は存在するが、それは「強くなることを自ら選択した人」だけである。書くことにおいても同様となるだろうというのが、彼の論である。
先に紹介した鶴岡先生の巻頭言で、彼は次のように続ける。
とはいえ,人間が文章を直接書かなくなることで失われるものもあるだろう.ある言葉の使い方ひとつで筆者の物の見方が伝わることもある.箇条書きで表現された内容を文章化する行為そのものを通して何か重要な気づきが得られることもあるかもしれない.考えを文章化することそのものが頭の体操(というよりももっと重要な知的訓練)であるかもしれず,気が付かなないうちに人類は大切な能力を失うことになる可能性もある.また,文章化という作業に大きなコストがかかるということ自体が,文章の背後に存在する,調査や思索,実験といった別の価値が存在することを間接的に裏書きしている,という側面もあるだろう.文章が AI を利用して書かれることが当たり前になると,そういった暗黙の了解もなくなってしまう.
(ちなみにこれを読み返していて原文で「気が付かなないうちに」と、「な」がひとつ多いことに気付いた。現代のAIなら犯さない誤りだろう)
Writing is Fun
Quarter Mile というブログで2025年8月に公開された “Writing About Writing” という記事での、ランニングについての話が面白かった。
半世紀前、(プロのアスリートでもないのに)走ることは、奇妙な行為だった。60年代には、外を走ってるというだけで警察官に呼び止められることも珍しくなかったそうだ。しかし時代は変わり、現代ではかつてないほどの人々が自発的に走っている。
走ることが可能なすべての人が、1日に90分間走る世界を想像してみよう。突飛な話に聞こえるかもしれないが、(膝軟骨の健康状態はさておき)ほぼすべての物事が今より良くなるはずだ。平均寿命は延び、あらゆる病気の発症率は下がるだろう。人々は平均して自分の人生により満足し、メンタルヘルスの中央値も向上するはず。その結果、生産性もおそらく上がり、目標達成のスピードも速まる…といった具合に。
私たちは、これと同じことが「書くこと」についても言えると考えている。
Imagine a world where every human who was capable of it ran for 90 minutes a day. It sounds crazy to say, but almost everything (except for maybe knee cartilage health) could be better. Life expectancies would be higher. Incidences for many kinds of disease would be down. People would probably be a bit more satisfied with their lives, on average; median mental health would be improved. As a result, productivity would likely also increase. We’d hit our goals faster, and so on. You see the picture.
We think that something similar is true for writing.
これからの時代、たしかに書く人、書ける人は少なくなっていくのだろう。そして、書くことには、たくさんの実利があるだろう。
しかしその前に、書くことはなにより、楽しくなりうることだということを注視したいと私は思う。
嫌々ながらジムに通う人もいるが、好きで走ったり体を鍛える人もいる。それ自体を楽しんでいる人たちがいる。駅から自宅まで歩くのすらイヤだという人もいれば、『BORN TO RUN 走るために生まれた』というノンフィクション本を見ると、みんな活き活きと100km以上のとんでもない距離を走っている。193センチで104キロの著者クリストファー・マクドゥーガルまで走り出している。そこまでではないにしても、趣味でマラソン大会に出る人は身近にもごく普通にいるだろう。
「AIがスゴい」というけれど、それよりも何よりも私は、人間にとって「言語がスゴい」というふうに思う。こうやってあなたに考えや想いを伝えられるのも、言葉があるからこそでしょう。
動物に言語があるやなしやについては色々な捉え方があるだろうが、ここまでそれを使いこなしているのは人類だけだろう。それが結果として幸せに繋がっているとは言い切れないかもしれないが、いまさらなかったことにもできない。ならばこれを前のめりに楽しむのも、人の営みとしてなかなか良いのではないだろうか。
そんなわけで、徒然なるまま、楽しく書いてみよう 🥳


