富豪のテニス、市民のテニス
コートでネットを張るために
もう2週間近く、毎日ここで文章を書いている。そこでひとつ気がついたのは、自分は記事が長くなりがちということだ。
ある記事を読んだ人から「ちょっと長いかな」と言われた。でも実は、その記事はもともと倍以上の長さがあり、最後になんとか半分まで削ったものでした…!
というわけで今日も書きます。長くなりませんように。
詩とテニス
当然ながら、文章の価値は長さで決まるわけではない。長い文章は、書く方も、読む方も大変だ。さらに、その文章量に対して肝心の中身が追いついていないこともよくある。不必要に言葉を費やすことは、かえって表現の価値を毀損するだろう。
その点、私の好きな「短歌」は、わずか31音で構成される定型詩だ。何千文字も書き散らかしている私の記事とは大違いである。
読んでいると、制約のある詩歌だからこそ表現できる味わいがあると感じる。31だからこそ面白い。
ロバート・フロストという20世紀アメリカの詩人はこう言う。
自由詩を書くことは、ネットを張らずにテニスをするようなものだ。
Writing free verse is like playing tennis with the net down.
彼にとって形式(ルール)のない自由詩は、手応えや緊張感、そしてゲームとしての面白みに欠けるものなのだろう。
制約があるからこそ、工夫を凝らし、そこに「豊かさ」が生まれる。それこそが創造性だ…!そういう捉え方は、詩を書かなくても納得できるものだと思う。
富豪は豊かなのか
昨日の記事では「富豪的(リソースを潤沢に使う)アプローチ」について書いた。
詩の話からの飛躍は承知の上で、先ほどの流れを引き継ぐなら、制約と豊かさについては、経済開発のような分野でも似た構図の話があると思う。
「物質的繁栄を謳歌する先進国より、途上国の人々のほうが幸せなのでは」というような話だ。実際のところ、どうなのだろうか?
タイの農村で
プラユキ・ナラテボーという、タイで出家した日本人僧侶の方がいる。彼は自著『「気づきの瞑想」を生きる』で、自身が出家した経緯を紹介している。
宮沢賢治に出会って抱いた「世界のまことの幸福とは?」という問いを胸に哲学科へ進むも、机上の世界にピンと来ない。彼はカトリック神父の紹介で、東南アジア・タイでの「農村滞在ワークショップ」へ赴く。
物質的に乏しい様子を目にし、最初は「貧困」という言葉が頭に浮かぶが、滞在を終える頃には「豊かさ」という言葉がその代わりを占めるようになった。美しい自然に囲まれ、家へ帰れば家族との団欒がある。翻って高度成長期の日本は…
2年後、再び農村を訪れると。そこでは水牛が売られて耕運機が導入され、家にはソニー製のテレビ、夕餉の食卓からは会話がなくなっていた。
打ち砕かれたノスタルジックな思いを、彼はNGOの現地スタッフへ伝える。するとスタッフはこう語りかける。
「そうか、わかるよ。(中略)援助はきれいごとだけじゃ務まらない。貧しさから脱したい、豊かになりたいってことは誰でも思っている。そのためにいろんな開発プロジェクトを政府もNGOも行っている。しかし、ただダムや道路を作ったり、お金をばらまいたりするだけでは、それはただ人間の欲望をつのらせ、村にあったよき文化を破壊し、村人たちの心がすさんでしまうのに手を貸してしまうだけだ。
モノは、人々の幸せを奪ってしまうのだろうか?
スタッフはこう続ける。
かといって、貧しさから脱却したい、豊かになりたいという村人の切なる思いも尊重しなければならないのは当然だ。おまえがこうして飛行機でタイまで来れて、自分の国とは違った風景に触れ、人々と交流し、感動したり、学んだりできるってのも、日本という国の豊かさあってのものだろうしな。オレも日本へ行ってみたいけど、今の給料じゃ何年貯めてもとうてい無理だろうな。ましてや村人たちにゃ……」
プラユキ・ナラテボー『「気づきの瞑想」を生きる』 p.37-38
それとも、モノが人々に幸せをもたらしてくれるのだろうか?
それは自由をもたらすのか?それとも人々の自由を閉ざしてしまうのか?人々の絆を引き裂いてしまうのだろうか?それとも繋げてくれるのだろうか?
それから彼は、タイの開発僧(寺に閉じこもらず、人々が直面する現実の社会問題へ積極的に取り組もうとする僧侶)たちの存在に触れ、道を進んでいく。
浅い未来
社会問題の解決について、Substackで活躍するアメリカのエコノミスト、ノア・スミスによる記事を引いてみよう。
そう遠くない昔、アメリカで産婦が死亡するのは、ごく普通のことだった。それから産業社会という土台の上で、ペニシリンが発見され、抗生物質による処置が始まり、それは長い苦闘の果てに克服されたのだ。
ロマン主義者なら,こう主張するかもしれない――「産婦の死亡率低下によって,世界はより浅薄な場所になってしまった.」 1800年代の序盤だったら,出産は死の危険と隣り合わせだという周知の事実をもとに,情動に訴えかける物語を語ることもできた.今日,高校の国語教師はジェイン・オースティンやエミリー・ブロンテを読むときにいちいちこのことを解説しないといけない.そうしないと,ああいう小説に登場する女性たちがいかに勇敢だったかを生徒たちが頭で理解することもかなわないからだ.
そういったロマン主義者に対して、彼は「不運や苦しみは、代償に見合う値打ちがあるわけではない」と返す。
エイズにより31歳でこの世を去ったキース・ヘリングが晩年に描いた「未完の絵画」。それは、ヘリングの命と替えるほどの価値があるだろうか?
それでも,それはいい取引だったろう.「未完の絵画」は偉大な作品だけど,ヘリングの命と引き換えにするほどの値打ちはない.AIDS がなかったら,格闘すべき人類の悲劇が減って,世界はちょっとばかり現状より浅薄になっていたかもしれない.でも,「人々の人生が哀しみと嘆きに満ち満ちたものでありつづけられるように,今後もずっといろんな悲劇が起こり続けてくれますように」なんて,正気の人なら願ったりしない.不運を味わう対価を払うだけの値打ちなんて不運にはない.彼のいろんな絵画が一つ残らず無意味な AI 生成のクズであったとしても,キース・ヘリングが高齢になるまで生き続けた世界の方が,ぼくらが現に生きてる世界よりも好ましかったはずだ.
私も、彼と同様の思いを抱いている。不運や苦しみは、それを美化せず、回避できるならそうすべきだと思う。選べるなら、あえて麻酔無しで歯を抜く必要はない。
衛生要因と動機付け要因
ここで少し話を変えて、20世紀アメリカの心理学者・経営学者フレデリック・ハーツバーグによる「二要因理論(Two-factor theory)」という興味深い捉え方を紹介し、考えの参考にしたい。
この理論によると、仕事における満足度や意欲の背景には、二つの異なる要因がある。
ひとつめは「衛生要因」。これが不足すると「不満」が生じる。しかし、これが十分に満たされても、「満足感・やる気」が高まるわけではなく、あくまで「不満がない状態」になるだけである。これには給与、対人関係、作業環境、雇用の安定といったものが挙げられる。給与が含まれていることに注目したい。
もうひとつは「動機付け要因」。これは、満たされると「満足」を感じ、自発的なやる気を引き出すものだ。欠けていても「不満」には直結しないが、あると仕事への意欲が高まる。これには仕事の意義や達成感、周囲からの承認、責任範囲の拡大、自己成長といったことが挙げられる。
ここでの妙は「”不満足”と”満足”が、同じ軸の上にない」という点だ。
昇給は「不満足を無くす(没不幸)」ものではあるが、必ずしも「満足(幸福)」をもたらさない。不満を解消していくことで幸せになるかというと、そうではない。かといって、衛生要因が不十分だと疲弊してしまう。
これは、多くの人が実感を伴って納得できることではないだろうか。
こう捉えると、衛生要因は、富豪的にでも解決されていくといいのではないかと思う。一方で、人はそれだけでは満足に至らないということにも目が向く。
ネットを張ってテニスするという豊かさ
テニスの原型は中世フランスにあると言われる。修道士たちが中庭で、手のひらを使ってボールを打ち合ったのがその始まりで、やがてラケットが登場し、王侯貴族の娯楽として発展した。
19世紀のイギリス、芝生の上で行う「ローンテニス」が生まれ、広大な庭園を持つ邸宅や会員制クラブを中心に上流階級で流行した。
20世紀に入ると、都市開発に伴い公共のコートが整備され、高価なクラブに属さなくてもプレーできるようになった。さらに、重かった木枠のラケットも、軽くて扱いやすいカーボン素材へと変わり、より幅広い人々が楽しめるものとなっていった。
テニスがプレーできる環境に手が届いてはじめて、ネットを張ることができる。制約を選択できる豊かさ… などとここまで書いていて思った。素朴過ぎるだろうか。
気がつくと今日もだいぶん長くなってしまいました。制約を選べてないじゃん!ではまた明日 👋

