それでなくては考えられない
プログラミング言語と思考様式、手話と知覚変容
言語、技術、あるいはそのほかの様々な道具や概念が、人の認知や営みにどのような影響を与えるだろうか。
昨日の記事では、AIによる文章生成のクオリティが人間を超えていく時代の人々について書いてみた。その流れを踏まえつつ今日は、自然言語での作文とはまた違った観点からの話題を考えてみたい。
プログラミングと思考様式
コードを書くという行為によって「ものの見方」が変わる。そしてこれからAIが代わりにプログラミングする時代には、多くの人間はもうその思考様式を獲得できないだろう、という話を先日見た。
たぶん2026年で人間がプログラムを書く時代はほぼ終わるんだけど、プログラムを書かないと身につかない思考様式みたいなのがあって、一日中プログラミングしてると明らかにものの見方が変わる。簡単にいうとクリエイティブになる。思考様式を獲得するために流行ることはないので勿体無い感ある
@tanukiponkich on X特にLispのようなパラダイムはプログラム以外(文学、哲学 etc)では出会えない、出会えたとしても「プログラムを書くことで初めてわかる」みたいなことができない思考様式なのでプログラムが必要だったこの50年くらいの人類しか持ち得ない思考様式になると思う。
@tanukiponkich on X
これは、自身の体験からも多少なりとも納得できる。私はソフトウェア開発くらいしか経験がないので想像の域を出ないが、他の職能でもそういったことは多少なりともあると思う。法曹の考え方、会計士の見方、生態学者の世界観、などなど……
オープンソースという概念を世に広めたエリック・レイモンドは、『ハッカーになろう (How To Become A Hacker)』(2001年初出, 山形浩生訳)というエッセイを残している。私は十代の頃に何度も読み返した。その「プログラミングを身につけること」という節では、主流のプログラミング言語に加えて「LISP」という歴史ある独特の言語についても紹介されている。
LISP を勉強しておきたいのは、別の理由からです――それをモノにしたときにすばらしい悟り体験が得られるのです。この体験は、その後の人生でよりよいプログラマーとなる手助けとなるはずです。たとえ、実際には LISP そのものをあまり使わなくても。
私も少しやってみた経験があるが、確かにあの考え方は面白く、クセになる感じがある。問題を違った視点から眺めるようになる。LISP プログラマーという求人はなかなか見たことがないが、そのエッセンスはモダンな主流言語にもふんだんに取りいられている。
また、私の恩師は「Prolog はスゴい」と言っていた。これは、現代の主流言語とはパラダイムが違う「論理プログラミング言語」だ。Prolog の求人は LISP 以上に見たことがない。スゴいからといって普及しているわけではないし、何にでも使えるわけではない。
この「プログラミングと思考様式」の議論に対しては、次のような反応もあった。「プログラミングのためのプログラミング」が起こるだろうという予言だ。
これは、「人間が身体を使って大きな作業をする時代は(とうの昔に)終わったけど、身体を使わないと身につかない身体機能や感覚があって、身体を使っていると生活が良い方向に変わるし、使わないと健康を損なうから、”身体を使うために身体を使う”という行為、つまりトレーニングやスポーツが生活に必須ものもになった」という歴史と同様、AIで頭を使う必要がなくなっても、”頭を使うために頭を使う”という行為が、今後は発生し根付いていく。
派生して”プログラミングのためのプログラミング”も発生する。(後略)
@SGee30418056 on X
昨日の記事では、AIが流暢な文章を生成してくれる時代に人間が自ら書くことの意義について述べたが、それと同様の捉え方だ。
電子計算機でのプログラミングという、1世紀足らずの営みによって生まれたものは多く、そしてそれは人間の認知にも影響を与えただろう。そしてこれからは、人間ではなくAIがプログラムを書く時代になっていく。そのとき人間は、また違った抽象度の役割から、ソフトウェアづくりに関わっていくだろう。そして我々は、また新たなメディアや道具を手に入れ、己を変えていくのだと思う。
さまざまな言語のかたち
論文誌『自然言語処理』に掲載された、永田亮先生による巻頭言『立体言語』(2024, 31巻1号)を読んだときは、大いに刺激を受けた。
言語の線状性(一つずつ順番に並べる制約)を超える、これまでとは異なった情報伝達の可能性。そして、そこに言語処理技術が活かせるのではないかというお話。
ひとえに言語の線上性,すなわち,音や文字などを一つ一つ順番に並べなければならないという自然言語の制約のためである(ただし,私が知る限り唯一の例外は手話で,両手はもちろんのこと表情,体の各部分を使い複数のことを少なくとも理論上は同時に表現できる).もし,二つ以上の音が同時に出せたら,この人はもっと言いたいことを思いのままに伝えられるんだろうなと勝手に想像してしまう.
(中略)実際,キーボードのようなものを二つ用意して,両手で入力すれば,複数の文を同時に産出することは理論上可能である.そのままでは脳が対応できないだろうから,産出にしても理解にしても,何らかの補助が必要でありそうであるが,それもニューラルネットが何とかしてくれるかもしれない.そうなれば自然言語のクラスが変わるかもしれない.別の見方をすると,人間の進化ともいえるかもしれない.
当時の私は「言語と地図の違い」を思った。文章は読む順番が決まっており、地図はそうではない。では「地図のような言語」があり得るのだろうか?

私はこの巻頭言を読んで、手話に興味を抱いた。そして足を踏み入れてみると、これはもう、とんでもなく面白い…!当時、すっかりハマった。それから手話の本を買い漁り、自治体の手話講習会にも一時期通っていた。
テッド・チャンによる『あなたの人生の物語』という好きな小説がある。SFというか言語小説というか、不思議な物語だ。そこに次のような一節がある。
わたしには、両親ともに聴力障害者である友人がひとりいる。彼はアメリカ式手話言語(ASL)をつかって育っており、しばしば英語ではなくASLで考えると語っていた。わたしはまえから、自分の思考が手技的にコード化されるというのはどういうものだろう、内なる声ではなく内なる両手を用いて論理的に考えるというのはどういうものだろうと思っていたのだ。
テッド・チャン『あなたの人生の物語』 p.200
この物語は、人類以外の言葉と、それによる違った世界の捉え方が示されている。しかし手話は、現実に存在するものなのだ。それはどういうものなのだろうか?
異なるモダリティの言語、手話
私も最初は誤解していたが、手話というのは、単なるジェスチャーではない。これは確固たる「言語」なのである。「日本手話」は、「日本語」という音声言語を身振り手振りで視覚的に表すものではなくて、文法も全く異なる独自の言語だ。
ほぼ全員がろう者であるギャローデット大学の教員だったウィリアム・ストーキーは1960年に、当時は音声言語の単純化されたものだと思われていた手話が自然言語であることを示した。
1970~80年代に自然発生した「ニカラグア手話」は、世界で最も新しく、そして歴史上初めて学者たちによって誕生の瞬間が目撃された言語とされる。
多くの人に読まれた『言語の本質』という著作でも、手話はたびたび登場する。
言語は音声という媒体によって実現され、聴覚のモダリティで処理されるということは、かつて言語の大原則の一つとされていた。しかし、現代の言語学・認知科学では、この原則は明らかに誤りとされている。手話の存在があるからである。手話は、慣習的な語彙と文法からなる自然言語の一種である。突発的に編み出されるジェスチャーではないし、エスペラント語のような人工言語でもない。
手話の媒体はおもに手であるが、そのほかに顔の表情や口の動きなども言語表現に用いられる。
今井むつみ, 秋田喜美『言語の本質』 p.70 (第3章 オノマトペは言語か)
私たちの「耳できくことば」とは違う、「目で見ることば」であるところの手話。手話を母語とする人々(ろう者に限らず、親がろうで自身は聴者の「CODA(コーダ, Children of Deaf Adults)」もいる)は、音声言語の人々とは異なるかたちで世界を認知している。視覚的に考える。モノマネの上手い人が多いらしい。独り言で手が動く。寝言でも手が動くそうだ。
「手」話というが、眉や口、視線、体の向きなど手指以外の様々な要素(NM, Non-Manuals と呼ばれる)も豊富に用いる。
ろう者は、異なる手話言語(アメリカ手話、フランス手話、などたくさんある)の人とも、数週間一緒に過ごせば、なんとなく会話できるようになるらしいというのをどこかでみた。スゴい。音声言語を扱う聴者では、それはできないだろう。
手話については1995年の「ろう文化宣言」をはじめ、文化や社会の面からも語りたいことはたくさんある。しかしそれはまた別の機会に譲ろう。
(ちなみに、もし手話に興味を持ったならば、まず一冊目として 松岡和美, 高野乃子『わくわく! 納得! 手話トーク』(2021, くろしお出版) を薦めたい)
手話・言語学研究者の高嶋由布子さんによる記事の一節が私はとても好きで、折に触れて読み返す。
手話を習い始めて半年あまりが過ぎた頃、突如視界がうるさくなったのを覚えている。歩いていて、雑居ビルの看板が目にどんどん飛び込んでくる。頭が痛くなるほど「見える」ようになって、耳栓をしたら頭痛がおさまった。電車の窓の向こうの建物の解像度が上がって、処理しきれなくなったのだ。聴者は目が見えていない。視野が狭すぎる。手話の先生がそういった理由が多少見え方が変わったときに、ようやくわかった。それ以降、ほとんど見えていなかった手話の要素を、大分カテゴリカルに知覚できるようになった。今はもう頭痛はしない。意識的に「見ることをさぼる」こともできるようになった。
手話を学ぶと、知覚の改革がある。新しいモダリティの言語はおもしろい。みんなで手話を学ぼう。
人間には、音声言語だけでなく、視覚言語という別のかたちがありえる。とんでもなく面白いことだと私は思う。そしてそこから想像を膨らませれば、これら以外にも、まだまだ未知のかたちが人間にはありえるとは考えられないだろうか。
言語も、地図も、データ可視化も、宗教や哲学も、思考のための道具だと思う。今とは異なる、新しい世界の捉え方をできるようにするもの。
人間の能力は、その人体構造に制約される。それでも、道具や概念で、これまで考えられなかったことを考えられる。それが私にはたまらなく刺激的で興味深く感じられるし、またそれが、人類の進歩と調和にとっても欠かせない重要な鍵ではないかと強く思っている。
